◎真の信者とは。篤信とは。素直心と求道心。卑しいまでの徳の亡者になれ。苦しいから一生懸命に信心しておるというのは、それは真の信心ではない。だから苦しい間に分かるということが大事。そして、道の尊さを分からせてもろうて、その道を求めてやまんという求道心が出けてこそ、しかも素直に。
%1泉尾の三宅先生。
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昭和四十三年九月二十七日朝の御理解
X御理解第九十四節「信者に不同の扱いをすな、ものをよけいにもってくると、それを大切にするようなことではならぬ。信心の篤いのが真の信者じゃ」
%U取次者に対する御理解だと思います。ですから、ここの大事なところは「大切にするようなことではならぬ」というのがこの御理解では大事なところでしょうね。
%Uけれども、今日、信者の立場、これは取次者に対するものですけれども、信者の立場で頂きますと、「信心の篤いのが真の信者じゃ」とこう仰る。ここんところを、ひとつ私も真の信者にお取り立て頂こうと、真の信者といわれるような信者にならせて頂こうと、ここんところを今日は頂いていきたいと思う。
%U「信心の篤いのが真の信者じゃ」と、どういうような信心が篤いというのだろうか。ここでは「お供え物をよけいに持ってくるものを大切にするようではいけぬ」と、まあ御用をできるというからそれがよい信者、真の信者でとはあながちいえない。
信心の篤いのが真の信じゃ。信心の篤いと、信心の篤いというのは「篤」という字が書いてありますね。竹冠に馬という字が書いてある。特別の、特別というか、その道一筋というふうにそのことに熱心に篤信のことを「篤」をつけますね。お百姓さんでも、特別な熱心な方を篤農と、こう申します。信心でもやはり、いよいよ熱心に信心をする人のことを篤信の人だと、こう申します。
%U%Vまあここでは熱心に信心をする人というのは、と、真の信心というのと、ちょっと違う。第一「信心の篤いのが真の信者じゃ」という、第一に素直になからなければならない。同時に求道の心が強い人でなければならん。求めて止まない。
そういう信心を、真の信者と、こういう。「信心の篤いのが真の信者」
%V信心が篤いということは、素直であり、求めてやまんという求道の心、なぜそういう信心に進んでおらなければならないかというと、ただ苦しい時だけに一生懸命に参ってきておるというのは、これは信心の手厚いのではない。
%V苦しいから一生懸命に信心しておるというのは、それは真の信心ではない。だから苦しい間に分かるということが大事なんです。そして、道の尊さを分からせてもろうて、その道を求めてやまんという求道心が出けてこそ、しかも素直に、でないと、苦しいからお参りしよる「あっちは熱心だ一生懸命にお参りされよる」ただ苦しいから一生懸命にお参りしよる人は、その人が苦しいことがなくなると、もう必ず信心をおろそかにするようになります。
もう信心を止めたりはいたしますまい。いっぺん味をしめてますからね、けれどもおかげを頂けば頂くほどおかげに腰かけて信心があるやらないやら分らんようになってきます。だからここでも、信心は一生懸命に参っている人が篤い、手厚い、信心の篤いということにはなってこない。
%V「信心の篤いのが真の信者じゃ」とおっしゃる、真の信者じゃない。真の信者というのは「篤信」素直で求めて止まぬ求道心、いうならば貪欲とまで思われるほどに、頂いても頂いても頂きつくせない、いうなら道を求めることにおいては、これでよいということはない。
%Vもういうならば、卑しい心とでもいうてもいいかもしれません。ね、卑しい人、私たちだって卑しい。「今あげん腹いっぱい食べなすったばってん、卑しかもんじゃけんか、また食べござる」いわゆる貪欲、いつもちょうどよかくらいな腹加減、わざわざどこにおいしいもんがあるというたっちゃ、そこに心動かさない。そういうような、まあいうなら【】そういう人は真の信心に入らん。貪欲な人、食べても食べても。
%V%G私が福岡でお商売させて頂いとる時分、そのころ築水連合会というのはなかったですが、久留米地区のの信徒会で、日田の堀尾先生を久留米の教会にお招きして急きょお話を頂くことになった。ところが日を同じくして福岡の教会に御本部から偉い先生がお見えてお話があるという、あちらのお話も頂きたい、こちらのお話も頂きたい。
%V%G久留米で朝から夕方まで、四時かそれくらいまでお話を頂いて、その足で急行電車でまた福岡に帰らせて頂いた。そして夜のお話を頂こうと思うて福岡に行った。堀尾先生のお話も本当にありがたいものであった。それでまた福岡に帰って、その後本部から見えておられる先生のお話を聞かせて頂いた。
%V%G吉木先生に「今日は大変おかげを頂きました。今日は朝から久留米の方では堀尾先生のお話を頂いて、こちらに帰らせて頂いてから、【】でしたけれども、こちらのお話をいただかせてもろうて」というて、お届けさせて頂いたら、亡くなられました吉木先生が、「そりゃあ大坪さん貪欲ばい」というて、欲が多過ぎると。
%V今日皆さんに申しあげる貪欲というのはそういう意味なんです。頂いた上にも頂かなければおられない。
%Vなぜそうでなからにゃならんか。私はあの時分、今日の御理解を頂いて気付くことは私はあの時分真の信者だったと自分で思う。
今日は一日こちらの堀尾先生のお話を頂いたから、もうそれでいっぱい、たしかにいっぱい頂いている。頂き足らんとは思っていない。けれどもそこにまたおいしいものがあるというたら、またそこんとにいかにゃおられない。そういう貪欲なまでの信心から、篤信とまでもいわれるほどしの信心を頂いておきませんと、おかげを頂いて、苦しい時に御参りをしておる。
%V【】たのであっても、苦しいものがなくなったらもう信心がおろそかになるといったような信者ではだめなんだ。おかげを頂いていけばおかげを頂いていくほど、日々神様の有難さを表させて頂けば頂くほど、それを誰にでも伝えさせて頂かなければおられない信心にならなければだめなんだ。
ね、ただおかげを自分だけが頂いて、そして、信心は消えてしまわせんにしてもです、いわば【】になっていまう。もうおかげを頂くこつは握ったというような顔してから、例えていうならばです。
ここの近所でいうならば、甘木の平田さんあたりの信心になれというのですよ。もう大変な貪欲。それはもう【】のためには、徳を頂くためにはそれこそ手段を選ばない。もう徳の亡者である。信心の亡者である。それをああいう風に熱烈に、先日も北野教会で信徒会がございました。
秋永先生が言うてございまいしたが、もう一人一人ににらみつけるようにして、叱るようにして、そういうことでどうしておかげを受けられるかというて自分がおかげを受けておる話を一生懸命なさったということです。これいつもそうです。自分はたくさんの仕事を持っておられるけれども、こと信心ということになったら、どこに行っても、行きたい。全国の教会をまたにかけて、どこどこの教会からお話に来てくれといや、それが北海道であろうが四国じゃろうが行かれる。
もちろん旅費なんかは自弁です。そこに自分の話を聞いて助かってくれる、また求める人があるならその人たちに聞いてもらおうという願い、おかげを頂けば頂くほど、そういう気持ちが生まれてくるという私は信心を今日の場合ですね、篤信。真の信者というふうに思います。
どうでしょう皆さん、苦労しよるから一生懸命に参りよるけれども、苦しさがなくなったら信心をおろそかにしておる、ね。だったらそれぎりです。
日々にもういきいきとして生まれてくるその体験がです。とにかくもうじっとしちゃおられない、それを伝えなおられない、聞いてもらわなければおられないというものをです。を頂いていくようなそういう信心になりませんと皆さんだめですよ。真の信者にならなければ、真の信者にならなければ、真のおかげになってこない。だからおかげは受けても、家内もついちゃこん、子供もついちゃこんということになってくるのです。
%Vおかげを頂いていけば頂いていくほど、その求めるもの求める心は、いよいよ強うなる。ね、お金を貯めていくことだけに血道をあげる人を守銭奴とこういう。それこそ金を儲けるためなら手段を選ばないというようにです。私どもがです、御徳を頂いていくためならば、もう手段を選ばない。人が笑おうとかね、人から悪口を言われようとかね、そんなことは全然問題じゃない。ただこれにたまっていくということだけが有難い。いわゆるそのことに悦に入っておられるくらいな信心。
%V「信心の篤いのが真の信者じゃ」と、信心が篤い、信心が篤いというのはどういうことか。まずはその人が素直でなからなければならない。そして、求めて止まぬ求道心、それは道のためであるならば前には進んでも後ろには引かんというようにそれを表わしていける人。徳を受けることのためには浮き身をやつしておる人、そこにはいよいよ神様のいきいきとした体験を現していくことができる。
おかげを頂いていけば頂いていくほど、いわば熱心になっていけれる信心者になっていかなければならないということです。ある程度のところのおかげが頂けた、家もりっぱになった、商売も軌道に乗った、ま、このまま行きゃずっと黒字が続いておる、そこまで頂いたらそこで信心が腰かけてしまう、もうただ御利益の方がいっとるだけですから、信心を求めるといったようなことがなくなってくる。
%Vところがそういう信者の上にです、ですから合楽ではいわゆる九十四節でもそうですが、これは道の取次者に対して下さっておる御教えでございましょう、いわば玄人にかかっておる御理解。それを皆さんが頂くということは、合楽の信奉者の一人一人が全取次者としての自覚にたって、まずは自分が助からなければならんためめには、頂いても頂いても頂きたらないというような信心の情熱というものが、それこそ貪欲といわれるくらいに私は求道するという、求道の心というものがなからなければならない。
そういう信心を、これは取次者、信者というのを問わずに、そういう信者を真の信者じゃと。だから取次者であってもです、ある程度のおかげを頂いたら先生になりすまして、いわば求道の心がなくなったらもう真の信者じゃない。
それこそ負うた子にでも教えられる。ここによい信心があるとするなら、…。
%1昨日大阪の、嫁いっとる森和子さんから葉書が来た。それこそ名実ともに現在日本一の教会におかげを頂いている、泉尾の教会、大阪の泉尾教会。先日お参りをさせて頂いた時に、なかなかあちらの親先生という方にお会いできない。そのお会いできた喜びと、それからこちらから送って頂く根賀以の新聞を全部持っていった。そして、あちらの親先生に、「これが合楽の機関紙でございます。どうぞ御覧ください」というてもって行った。
%1ところがもう、有難い、有難いの連発であった。とそこに書いてある。もう本当にありがたい有難いというて、何回もお読みになられた。
まあこれは和子さんの夢なんですけれども、どうでもひとつ東の泉尾に西の合楽いわれるほどにおかげをいただいて頂きたい。そん時には合楽の親先生と、泉尾の親先生と手を握りあって頂きたい。そいうような願いをこの人は持っているわけなんです。
例えばそんなら、泉尾あたりから御覧になったら、合楽の信心なんかというのはもちろん足下にも及ばないようなものであり、合楽の大坪なんて誰も知らない。
泉尾の先生といや全教的にも世界でも宗教関係では有名な方、そういう先生がです、いちとるにたらない私どもの信心をですね、何かそこに得られようとする求道心というのは、やっぱりやむにやまれぬものがそこにいつもある。
これがこちらの古新聞を、たくさんこちらから送ってもらっただけを全部持っていった。そしたらその全部をです、よう持ってきて頂いたといって、有難い、有難いと、「そりゃ有難い、そりゃ有難い」といって受けて下さいました。と書いてある。「嬉しそうに、「そりゃ有難い、そりゃ有難い」といって」その有難いを連発しておられる。
もうまさしく徳の亡者です。だからそこあげんして御比礼を頂きなさるっことができるんだと私は思うのですけれどもです。おかげを受ければ受けるほどその心が強うなっていくという信心に、お互い進んでいかにゃいけんのです。
あちらのお広前、三億六千万円か七千万円の御造営ができた。ひとっつも腰かけてござらん。先日も世界中回って帰ってきておられる。宗教関係のこと、金光教を世界のどこどこにも分かってもらおうというもんじゃない。もう世界の難儀に対して、世界中の宗教家が今こそ立ち上がらなければ名らんといったような意味合いのものらしいです。
私どもの願いもやっぱそうですけれども、こちらがまだそれを現していませんけれども、それも非常に意欲的。
ちょこっとばかり財産ができたというてから、それでもう信心が不熱心になる。例えば今合楽で十か所なら十か所共励会があっておりますが、その共励会にでもやはりいちいちおかげを頂いたなら頂いたほど、苦しいものが集まったちゃつまらん。おかげを頂いたら頂いたほど、日々頂いていきゃ頂いていくほど、それをみんなにでも聞いてもらわなきゃおられない、遠い近いをいわずに回ってあるかにゃおられないくらいな信者はですね合楽ではどうでもおかげ頂かなければと私は思うです。
この人たちこそ第一線にたってそのおかげを頂いておることを聞いてもろうたり、話して励ましおうていかにゃならん、「私もそげなくるしいときもあったけれども、私はかくおかげを頂いた」ということを話さねばおられないものを、だんだん育っていくような信心に育っていかなければならないと思うです。
%Vそれには素直だけではいかん。素直の上に貪欲でなからなければいかん。いわゆる求道心、求めて求めて止まない心がなからにゃいかん。
「毎日お日参りばしよるけん」というのじゃつまらん。本当によいお話があるならそこにお話を求めていかなきゃおられないというものと、日々自分がおかげを受けておる有難いとものを現していきよる、その有難いお話を求めて聞いて下さる人たちがあるなら話しにいかなきゃおれないというような私は信心。そういう信心に進んでいかなきゃいけない。それをここで手本というなら平田さんあたりの信心。
こと信心というたらもう何にもない。「忙しかけん」てんなんてんということじゃぜんぜんない。
今日「真の信者じゃ」と、信心の篤いのが真の信者じゃとおっしゃるから、おたがいが真の信者にならせて頂こうという願いを持たなきゃいけない。
%Vその真の信者ということはどういうことか。素直に求めて止まないこの求道心がこれにつのっていきよるか、自分の心の中に。これならどんなにおかげを頂いてもおかげを頂いてもいよいよこれが育ってくる。いわゆるお役に立つ信者である。
%V私は今日「信心の篤いのが真の信者じゃ」と、ここだけを頂いたが、Z篤いという字を分解して御覧なさい。竹冠に馬と書いてある。
%VZ竹は素直。Z馬は卑しい心をいわれる。しかもこれを二つ合わせてとくと読ませるところから、私は考えて、今日ここでいう卑しい心というのは求めて求めて止まないという心、貪欲な心、それは何か、信心である。
%Vね、信心をもっともっとその信心の奥がに進みたいというその願いが、そういう願いがやむにやまれぬものになっていくという信心。そういう信者を真の信者じゃとおおせられてあると思うのです。ね、毎日一生懸命に参ってきなさる。けれどもそれは苦しいから参ってきよるのである。【】せんならんけん参ってきよるのである。そういう人が苦しいことを抜けて、だんだん商売も軌道に乗った、お金も大変不自由せんようになった、家も立派に作った、苦しいから参ってきよったのはそこまで来たらぴしゃっと信心は止めはきらんでもそれで信心は育たなくなってくる。
ね、そういう信心では真の信者とはいえないということになってくる。
だから私どもの信心内容というものをいいっぺん検討してみて、その求めて止まないという、その信心の心が、心の中にだんだん育っていきよるかどうか、いよいよ素直にそれが育っていきよるかどうかということを確かめて、このまま育っていきゃ自分も、例えば平田さんあたりのように、それこそ神の御用のためならば、もうそのことだけのために一途に、信心の方に進んでいかれる。
忙しかりゃといや、もういかれん、忙しいといやもういかん。もう今日は雨が降りよる風が吹きよるともういかん。
信心のことがそこにおいしいもんがあってもいけないというような信心ではつまらん。いわゆるそういう信心は真の信心じゃない。真の信者じゃない。
風が吹こうが雨が降ろうが、そこにおいしいものがあるなら、そこに求めて求めていかなければおられないといったような心が育っていきよるかどうかということをたしかめる育っていきよるなら、自分は真の信者、真の信心を求めて真の信者になっていきよる自分であることをお礼を申し上げる。
いよいよそれを育てていかなきゃいけんと私は思うですね。
今日はここんところを「信心の篤いのが真の信者じゃ」と、その真の信者を目指してのところを聞いて頂きましたね。どうぞ。